日日是好日あるがままに。

日々の自分への言い聞かせ、面白いものの共有の場。

生活の中の性善説と性悪説

前述の通り、基本的には人の営みの中では、かなりの割合で暗黙の信頼関係が成り立っていて、大半の人は善人であるという性善説で社会が成り立っている。

 

ただ、一度悪意を持ったものが現れると、善意を持つ大半の人々もそのレベルで物事を判断する必要に陥り、極端な制限事項が発生、性悪説 - 人は誰でも悪いことをする - をベースのルールができてしまう。その中でまた少しでも異質な存在が生まれると自己ルールが自然発生的に生まれ - なぜかこれがマナーと呼ばれる - 、制限のスパイラルが発生する。

 

でも人が営む社会生活は数千年単位で行われ、現在の資本主義、自由主義社会が始まってからでも100年以上が経っているが、その割にはそこまで苦しい制限がかかっているとは思えず、相変わらず基本自由な社会が成り立っている。

 

あまり極端な制限がかかった場合はそれを破り、リセットする力が生まれるのだろうか?

過去の人を酷使したり、性差や特定の主義主張を持った人への差別などがなくなり、徐々に良い方向には進んではいる。そういった点では長期的にはやはり性善説がベースで成り立っているのだろうか?

 

 

 

 

暗黙の信頼関係

多くの人がそれぞれの思いや、やらなければならない事を遂げるために日々行動をしている。

ただ、それを遂げるには不特定多数の暗黙の信頼関係があってこそ個々の生活も成り立っている。

必要最低限のことはもちろん法律などで制限されている。ただ、それを守るか守らないかはここの人間次第。

 

青信号を渡る時、暗黙の信頼があるからこそ、信号を信じて安心して渡ることができる。

買い物をしても、暗黙の信頼があるから表示された原材料を信じて安心して食べることができる。

 

もちろん、ごく稀に暗黙の信頼を破り、人に危害を加えたり、嘘をついて商売をする人もいる。ただ、自然排他的に、もしくは行政、司法の力で速やかに排除される。

 

物事がうまくいかない時、誰かのせいにしたり、自分は虐げられているなんていう感情が出てくることがあるし、それは場合によっては仕方がないのかもしれない。

ただ、社会の基盤として多くの人を信頼し、また多くの人に信頼されて自分の生活が成り立っているということを想像すると、少し気持ちが楽になる。

コンピュータ導入の障壁

業務をIT化するとかえって手間がかかるという話を聞く。人がやっている業務をそのままIT化しようとするとそりゃそうだろう。

 

こうなった場合にはこう処理する、こういうエラーが出た場合はこうやってリカバるなどと、いかに要件をきちんと投入するかだが、商売やる方は大雑把な方が良いので要件が一向に合致しない。挙げ句の果て、不測のリカバリはビジネスリクエストとして、手作業でデータ更新をしたりということになり、これってITなんだろうか?と多くの開発運用スタッフは嫌になり離れていく。

 

そもそもコンピュータは同じことを繰り返すのが主体

難しいことをやっているようで、If~Thenの分岐とLoopの繰り返し

 

人の仕事をそのままコンピュータにやらせようとすることによる無理と、IT人材がIT技術に特化しすぎて上流工程においてもそもそも根底にある業務要件を理解できなくなったからなのかもしれない。

ITがなかったころの事務部門がコンピュータを導入して、まずは総勘定元帳をコンピュータに投入、そこから周辺処理が徐々にシステム化されていた頃は業務部門がIT業務も担っていたので後者の方は問題なかったのだろう。(でもその頃はコンピュータの処理速度もそれほどでもなく、職人技で人がやった方が早いということが本当にあったのだろうけど)

 

コンピュータにはコンピュータの適切なやり方というのがあるので、それをどうやって人の行動を読み解いてデザイン、新しい流れを作っていくというのがIT上流工程において重要な役割かと思う。

逆に人の流れ、行動パターンを無駄な動きや失敗も含めて全て読み取って、AIでディープラーニングすれば今までにないものが出てくるのではないかと思っている。

過去2年ほど、構想を抱いているが、なかなか賛同者を集めるのが難しい。。。

 

 

お金と物質の価値

お金に対して価値を求める人はそれが物質(人が提供するサービスなども含め)に対してどのくらいの価値を持っているかを対比せずに求め続けているように見える。

 

お金そのものと物質とはやはり別に考えるべきかと思う。

人の世界で需要と供給の中で流れる物質は連続的なもので、その間の時間と空間を結ぶためにお金が存在する。物質と物質の間にお金があって、それらは等価交換が行われているだけである。

デフレというのはお金の価値が上がっている=物質を媒介するには量が少ないということなので、物質が流通できるだけのお金の量が必要。どこかにお金が淀んでいて流通していない分も考慮した上で必要量を確保する必要がある。GDP500兆円ということは、毎年500兆円分の価値を持つ物質が創造されているのだから、それを流通するだけの量のお金が必要。

国際的な取引も多くあるので、国内で500兆円全てが流通しているわけではないが、国債を発行した毎年数十兆円規模の増加で追いついてないから物質の流れがうまくいかないのでは?

貯蓄、投資の元本として物質の流れに介していないお金も多数あるのだからそれも加味したお金の量が増えないといけないのではないか?

そうすれば必然的に淀んでいるお金の価値も下がり、過度に溜め込んでいたお金も流通に加わるのではないか?

 

人の営みの中の価値ではなく、お金そのものの価値についてしか語られていないので、経済の仕組みそのものの考え方を根本的に変える必要がある時期が来ている。

 

命燃やす

”命を大切に守る”といわれるけれど何をもって命とするかが難しい。

数十超の細胞はそれぞれ生命維持活動を行なっているし、それの10倍はいるであろうと言われている細菌達もそれらの生命維持を担っている。

髪の毛や皮膚、腸壁などの細胞は知らない間にどんどん死んで入れ替わっていく。どれも同じ一つの卵細胞から分かれてきたのに数日で死ぬものも一生生き続けるものもいる。

 

いわゆる”命”とはそれら生命維持活動のマクロ的な統合現象なのだろう。絡合ってやつ?

 

そうだとしたらそれが存在する間にどうやって使うかと考えたほうがいい。

守るのではなく、それを燃料として燃やして命の世界観を保っていく。

大事に守るのではなくて、削ってもやす。命は生命活動の糧でもある。

 

 

 

お金の存在意義とそのものの価値

お金は物と交換するためのチケットであり、物やサービスの質や量に応じて交換する量が決まるはずである。
ただ、今、お金そのものに価値を持ち過ぎていて、お金の価値に応じて物やサービスの価値が決まってしまっているのではないか。
人の営みの中では常に新しい価値が生まれて、それを人々が相互交換することによって経済活動が行われているが、その相互交換を仲介するためのお金に価値を持ち、人々が蓄えることによって経済が滞留し、人によって生み出された本来必要な物やサービスの価値が下がってしまっている。

お金というのは物やサービスに変換されて初めて価値の出る物でなければならず、将来や、未来への貯蓄も含め、ある一定期間で物やサービスに交換されなければならない。

お金の価値が下がり続け、ある一定期間で利用できなくなるような手立てを考える必要がある。ある意味インフレ状態というのがその手立てなのかもしれない。
ただ、あまり大きく価値が下がってしまうと資産の保護のために別のものに置き換わって、それがお金と同じ価値を持ち始めてしまうのであろう。

 
過去、貨幣というものが古代に自然発生的にできてから価値を持ち出すまでに起きた経緯を調べて、現在社会にマッチしたお金の存在というものが必要なのかもしれない。
 

自分の若い頃は

自分の若い頃はお前達みたいじゃなかったなんて自分アピールする人が多いが、確かに若い頃は成長の余地がある上に、失敗を恐れず、自分を盛って行動するので機動力はあったのかもしれない。

年を重ねると自分自身の限界を意識し始め、余力がなくなるとそのポジションをキープしようと守りに入る。そうすると自分を守る術は相手を攻撃するしかなくなる。外に敵を作るという一番楽なパターンに陥るんだな。

 

それに加え、自身の限界を正当に評価すると如何に自分に力や影響力がないことがわかってしまい、鬱とかになるのかもしれない。

 

まだまだ自分の限界を作らずに色々やっていきたい。好奇心のあるうちは大丈夫かな。

あとは周りの人のサポートがあることを感じ続けること。

 

いつもありがとうございます。